『紺青の拳』とはなんだったのか 〜劇場版名探偵コナン『紺青の拳』タイトルについての考察〜

ネタバレ注意。














今作のタイトル『紺青の拳』がどういう意味なのか、ずっと考えていて。
まあ普通に、今回の事件の中心にあるブルーサファイヤの名前ってのがひとつあるんですけど。

もうひとつ意味があるとすれば
キッドの「何も無い拳の中になにかあるように見せるのが怪盗、拳の中に何が入ってるのか暴くのが探偵」って台詞と
京極さんに課せられた「その拳を何のために振るうのか」って問い。



一旦、前作『ゼロの執行人』の話をします。

執行人においてコナンは安室さんに、一瞬「自分の正義観に反する行動をしている気がする」という疑念を抱きます。

それが、予告にもなってた「今回の安室さんは、敵かもしれない…」って台詞にも繋がってるし
実際最後まで観ても、安室さんの行動がコナンの正義観に則ってたのかは微妙です。
少なくともわたしの正義には反する。
(ここの話はTwitterで既にしてるので、こっちでは機会があれば)



で、話を今作に戻すと。
そもそもコナンとキッドが、探偵と怪盗という正反対の立場にありながらお互いに協力できるのは
この二人の正義観がかなり近いからだと思うんですよね。

二人の倫理観の共通点は、たぶん
『他者に不当な扱いを受けたり不利益を被る人がいるのが許せない』
『他人に迷惑をかけなければ自身の意思をできる限り尊重すべき』とか、そのあたりだと思います。
近代の基本的人権の尊重って概念をまるっと受け継いでる感じ。

だけどあくまでも立場は『怪盗と探偵』。
拳に意味を持たせる者と、拳の中身を暴く者。



そして、事件の真相に辿り着いた結果彼らが京極さんの問いに『赦し』を与えます。

キッドは、京極さんの拳の中に「愛する人を守るため」という大義名分が入っていると見せかけました。
コナンは、その拳の中が空であることを…つまり
実際は京極さんの意思そのものにしか拳を振るう意味などないと暴きました。



そして、その拳…つまり
キッドとコナンによって意味を与えられた京極さんの拳こそ
あのブルーサファイヤと同じ『紺青の拳』の名が与えられるべきものなのではないか、と思うのです。


探偵と怪盗と、格闘家。
それぞれ立場は違う。『拳』に対する向き合い方も違う。
しかも、京極さんとコナン以外三すくみのライバル関係にある。

だけどその三人が、「園子を守るため」というその一点においてのみ正義観が一致するというのが
どれだけ尊いことかコナンファンならわかると思うんです。


そして『紺青の拳』の名を冠することができたからこそ
京極さんは、探偵じゃないのに名探偵コナンのメインテーマをバックにアクションすることを許されたんだと思うんですよね。




ラストシーンで、京極さんがアメリカ?にまた武者修行に出ているシーンが挿入されます。
つまり、京極さんが拳を振るう理由は『強い人と手合わせしたい』に戻ったのだ、とわたしは解釈します。
そして、園子もそれを望んで、ツーショット写真を持たせて送り出します。

園子は、京極さんが好きになった女は
守られるだけのか弱い女でいることを望みません。
守られるだけではなく、自分も彼を守りたいのです。

「真さんはやっぱ、どっかで戦ってないと」

この言葉が、自由意志を彼等がどれだけ尊重しているかを端的に表している気がします。